峯城の近辺の城紹介

近辺の城分布図 
 伊勢の国における織豊期 
            鈴鹿郡峯城を中心として    藤岡英礼 氏 参考にさせて頂きました。





小野城2013年2月10日

小野城は鈴鹿川の北岸、標高90mの台地上に位置し、城下の南を東海道が通ります。
元久元年の「三日平氏の乱」について吾妻鏡は「張本若菜五郎が城郭を構えおる所は、いわゆる伊勢国の日永・若松南村・高角・関・小野等なり。遂に関・小野においてその命を亡す。」と乗せているとのこと。
室町時代には、亀山城を拠点とする関氏には、三与力(小川、白木、小野)と七人衆(葉若、野村、芝原、豊田、岩間、原、住山)があり、その小野氏が居住していた城である。三与力は、いずれも関谷久我庄に接近した地侍たちでいち早く関氏に従属していた。
城跡の北には桜川が流れ、自然崖となっている。集落の北東、字殿内地内の左端には幅10m、長さ40m、深さ5mの堀と、それに沿った大小二本の土塁が東西に続き、これから西方へ約450mはなれた字大堀地内には、南北に約25mの堀と土塁が見られる。これらの遺構が鎌倉時代のものか、それとも室町時代のものかは不明である。
また、伊勢名勝志では、この地を若菜上跡とし、小野氏宅を山下村字南鍋田にあるとする。
日本城郭大系第十巻 三重 奈良 和歌山 より 


伊勢の国における織豊期 
            鈴鹿郡峯城を中心として    藤岡英礼 氏 参考にさせて頂きました。

小川城2013年2月9日

小川城を「日本城郭大系 第十巻 三重 奈良 和歌山 三重県の編集は三重県教育委員会文化主査 小玉道明」 の書籍から調べてみました。
伊勢平野の中央部を流れる鈴鹿川の支流前田川は亀山市の北部丘陵地の水を集めて東に流れる。小川城はこの前田川の南岸に広がる標高100mほどの丘陵地にある。「勢陽五鈴遺響」に小川下野守は関安芸井守に仕え、観応二年(正平6(1351)凶徒を追放した功により、南朝方の綾小路大納言から勲書を賜るとあり、その子孫小川丹波・図書・猪之助らが歴代居城するとある。また、「三国地志」にも、小川図書、一説に関氏家臣小川丹波守居城するところとある。
小川家は、白木・小野家と共に関氏の家臣で、各在所を領知する与力三人衆の一つである。
城跡は、丘陵東端部にあって、西側以外は急な傾斜地となる。東・西の二つの郭からなり、東の郭は地形に制約され40m*35mの3形状を呈している。また、西の郭は南北に幅8m、高さ3m程の大きな土塁を持ち、北側の土塁は公正の破壊にもよるが幅4m高さ2mのやや小さいものである。東西の郭とも周辺に土塁は無い。西土塁の西側は現在、道路となっているが、当時は堀切道であったようである。また、幾つかの郭があったことも想定できる。とのこと。


伊勢の国における織豊期 
            鈴鹿郡峯城を中心として    藤岡英礼 氏 参考にさせて頂きました。


落山城2013年2月8日

落山城は鈴鹿川の支流である安楽川の北岸の標高70mの丘陵上に位置します。峯城は谷を二つを隔てた東方600mのところにあります。峯城との位置関係からその出城とおもわれるとのこと。野元坂館が景清宅跡と云われていますが、城館跡として鶴村弾正の辺法寺保としてこの城の可能性もある。とのこと。辺法寺町字網中にあり、120m*120mの広さがある。丘陵に沿う土塁が城郭を取り囲む。西方の土塁は2重になり、井戸跡も3箇所みとめられるとのこと。
日本城郭大系第十巻 三重 奈良 和歌山 より

原城2013年1月24日

北勢にある峯城に関する城を調べてみました。参考文献:九九五集、亀山地方郷土史、秀吉が来た!パンフレットなど
原城  旧庄内村大字原字畑ヶ田にあった。天正中 堀内帯力がここに居た。
堀内氏は峯氏の幕下であったが後滝川一益にくみし峯城陥落後は岡本宗憲の与力となったが岡本宗憲が亀山城築城の前に廃城となった。

追記:サイクリングでこの当りも走っているので季節を見て歴史散策サイクリング道中記を記載したいと思います。

大久保城2013年1月20日

北勢にある峯城に関する城を調べてみました。参考文献:九九五集、亀山地方郷土史、秀吉が来た!パンフレットなど

大久保城  大野字中瀬にあった。大久保伊豆守がここに居た。
天正中 織田氏に属して岐阜で戦死し廃城となる。城跡東西一町南北二町三十弐間
 大久保城 90m*80m 標高180m 北500mのところには内部川が東に流れ采女町から水沢峠を経て滋賀県土山町鮎河に出る鮎河越とよばれる旧街道筋にあたる。大久保伊豆守は天正十一年(1583)織田信長の三男で関一族の神戸家を継いだ三七郎(神戸信孝)と兄信雄の対立に際し神戸信孝に従い岐阜で討ち死にし城は廃城となった。伊豆の守の息子覚兵衛・権太夫は、京極氏・池田氏に仕えた。 


伊勢の国における織豊期 
            鈴鹿郡峯城を中心として    藤岡英礼 氏 参考にさせて頂きました。


山本城2013年1月18日

北勢にある峯城に関する城を調べてみました。参考文献:九九五集、亀山地方郷土史、鈴峰の郷土史、秀吉が来た!パンフレットなど

山本城   山本字瀬古垣内にあった。俗浜田氏の族村尾刑部大輔がここに居た。
山本城 100m*50m 入道ヶ岳東麓にあたる小丘陵にある。村尾刑部少副が居城 天正十一年(1583)神戸信孝に従い美濃に赴いた留守に羽柴秀吉の伊勢攻略に際し筒井順慶に焼かれたと伝えられる。
天正十一年二月六日 秀吉が出陣を命じて土岐多羅越(岐阜県大垣)で羽柴秀長、筒井順慶、伊藤掃部助(がもんのすけ)、氏家行広など25千で攻めたと伝えられる。

 古城は下記に記述。
伊勢の国における織豊期 
            鈴鹿郡峯城を中心として    藤岡英礼 氏 参考にさせて頂きました。


小岐須城2013年1月17日

北勢にある峯城に関する城を調べてみました。参考文献:九九五集、亀山地方郷土史、鈴峰の領土史、秀吉が来た!パンフレットなど
椿の辻様よりコメントを頂きましたので早めに記事にしました。小岐須城、山本城、大久保城、原城を順次紹介致します。
小岐須城  旧椿村大字小岐須字南条にあった。永禄中小岐須盛光がここにいた。その子盛経は織田信雄に従い天正十二年六月秀吉のために攻略されて廃城となる。
小岐須城 土塁・空堀 60m*100m 標高180m 入道ヶ岳の東南麓の扇状台地の南隅にある。南は御幣川(おんべがわ)に接して比高20mの急崖となっている。永禄年間(1558-70)に関盛信(亀山城主)の弟小岐須盛光が居城したといわれその子盛経は織田氏に属したが、天正十二年(1584)羽柴秀吉に滅ぼされたと.
「城跡は殆ど遍照寺境内となっている。とのこと。


伊勢の国における織豊期 
            鈴鹿郡峯城を中心として    藤岡英礼 氏 参考にさせて頂きました。

山尾館H28年5月12日
峯城の与力の山尾氏の館

伊勢の国における織豊期 
            鈴鹿郡峯城を中心として    藤岡英礼 氏 参考にさせて頂きました。


青館2013年1月11日

唯願寺から一旦巡見街道(306号線)に出たほうが道は分かり易いでしょう。出て四日市方面(北側)に向かいます。農協やエッソのガソリンスタンドが現れますがその南側の道を西に向かいます。写真の正面の道です。
  

真っ直ぐ進んだ突き当たりに茶園畑や川崎タウンが現れます。このあたりです
 
鉄筋の建物の西側に回りこむと青館が如何に高い高台の上に建っていたかが分かります。30m以上あるのでは?
櫓台があったと思われます。この後ろ側にも櫓台があったのでは。鉄塔です。この高台を降りるとその坂の下に赤坂橋があります。 

赤坂橋から正面にある峯城を臨み見るとお互いがのろしで確認できたのでは?と思われます。青館、峯城、落山城と一直線で連絡を取りながら守備をしたのでは?
右側の崖の上に青館ヶありました。この道は私がサイクリングの練習で何時も使っているところです。雄大さが伝わる場所としか思わずに走っていました。
 

館址が無いのは残念ですが城を構築する時の一端が垣間見れて楽しい場所でありました。各々の城を有機的に結びつけています。散策したり、走ったり、サイクリングしたりするだけでも価値ある道中でした。今後、もう少し深めて調べるとともに岡本宗憲が峯城の最後の城主で新亀山城を作った時に峯城と旧亀山城は廃城と成っていますがこの当りの歴史を調べると今回の道中も新たな発見があるのではと思っています。宗憲の住居は?など。いい道だ!歴史街道にしたいけど・・。もっと調ナイト。武将祭りには?不足ですね。

古城城2013年1月10日

八島川に架かる嵯峨瀬橋です。
 

正面(西の方向)に見える村が柴崎でその向こうの小山が峯城で写真を拡大すると分かりますが鉄塔辺りが峯城の櫓台があるところです。峯城櫓台の記事はここをクリックかんざし井戸が近い峯城の入り口がこのあたりにあります。この背の方向(東)に進むと古城址があります。


これが先ほどの嵯峨瀬橋から続く道で直ぐに坂道です。さがせ~。
 

途中の道で崖の上が土塁あとです。自然の崖を生かした要塞です。
右側の下あたりは深い崖になっていて上がって来ると高い土塁があったと思わせる場所です。
 

古城址の説明の標識が立っていました。現在は一色の公民館や家屋が多数建てられ、畑や家でビッシリです。今は城の面影はありませんが敷地の広さが残っています。唯願寺もその敷地内にあります。


唯願寺の入り口です。住職さんは森の林照寺の住職さんでもある渓花さんですが、風で寝込んでいらっしゃいましたので後日お話をお伺いすることに致しました。元は青館にお寺があったとか伺っています。
古城の城跡がないのが残念ですが、歩いてみると周りの自然の雄大さが分かり城があればこの自然にマッチした強固な城であったと思われます。さて次回は青館址を紹介します。

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